さ え ず り

過去データ
〜〜〜『ほおじろ』2003.10.巻頭言から〜〜〜

日本野鳥の会・千葉県支部は、
日本野鳥の会69年の野鳥保護活動の流れをふりかえりつつ、
21世紀的課題にとりくんでいきます

日本野鳥の会・千葉県支部

個体や個体群の保護、種の保存から、生息環境の保全へ。会の創設からウトナイ湖まで。


日本野鳥の会の活動の内容は、歴史的に大きく変化しています。


1934年に、中西悟堂が日本野鳥の会を創設した当時、会長中西の周りには文化人が綺羅星のごとく集い、富士山須走の探鳥会を初めとする探鳥会を開き、文化の薫り高い『野鳥』を発行しましたが、他方、 鳥巣や鳥屋場の見学会なども行われました。


戦前の日本野鳥の会には、保護活動をするという発想は 見られませんでした。

1934年に創刊された『野鳥』は、きわめて格調の高い雑誌であった

戦後になって、路線の転換があり、空気銃・カスミ網の禁止に向けた活動が始まります。

野の鳥は野で見るべきだという、探鳥会の思想が固まり、野鳥の個体を守る活動が芽生えたわけです。


それとともに、時代の流れの中で、日本の野鳥保護活動は、個体群保護、種の保存の活動にも取組み始めます。


やがて、日本経済は高度経済成長期を迎え、各地で、埋立などの大規模自然破壊が計画されます。
そんな中、千葉県の新浜で、埋立反対の活動が起り、野鳥の生息環境を保全する活動の嚆矢であるといわれました。

その活動の結果、行徳野鳥観察舎が出来ましたが、この時期の日本野鳥の会は、必ずしも大規模開発に反対し、 生息環境を保全するという思想は獲得していなかったようです。


日本野鳥の会が、野鳥の生息環境を保全する姿勢を鮮明にしたのは、北海道ウトナイ湖に、自己資金による バードサンクチュアリ建設を計画してからです。
東京湾はこのように埋立てられた。
National Geographic 2002年10月号より
三河湾の埋立地の景観

一国内の野鳥保護から、国際的協力による野鳥保護へ。ウトナイ湖からWINGまで。

その後、中西会長が退き、日本野鳥の会は、環境保全を前面に打ち出し、組織的変貌を遂げました。
ウトナイ湖のサンクチュアリ成功を見て、各地の地方行政から、サンクチュアリ計画の申し入れがあり、 現在の11か所のサンクチュアリに繋がりました。
他方、日本国内で野鳥の生息環境を守っても、国境を超える渡り鳥は守れないことから、地球規模で 野鳥の生息環境を守るべきだということになり、日野にWING=鳥と緑の国際センターが出来ました。
大きな飛躍でしたが、2001年には、活動を指導した人々が日本野鳥の会を去りました。

『アジア版レッドデータブック』A・Bは、2冊で3000ページを越す大冊だ、バードライフと環境省が作った。

これを作り上げたのは、日野市にあるWINGの存在なしには考えられない。


「環境の世紀」
といわれる現代にあって、WINGの使命は大きいはずなのだが・・・?

生息環境の保全(reservation)から、失われた生息環境の再生(regeneration)へ。
新浜の保護から三番瀬の環境再生まで。

千葉県では、2001年に 堂本暁子知事に当選し、三番瀬埋立が白紙撤回され、湿地環境再生を目指して円卓会議が始まりましたが、 失われた生息環境を再生するという、現代的課題を理解せぬ知事は、円卓会議に丸投げしたままで、再生の 見込みが立っていません。


しかし、人間の与えた環境負荷が原因で、三番瀬では青潮が多発し、生態系破壊が進んでいます。 Regenerationが必要な所以です。
今年も、すでに9回の青潮が発生している。
大規模な青潮が三番瀬海域に入り込むと、一晩で底生生物が斃死する。 二枚貝の斃死は、次の冬に飛来するスズガモの生息状況を大きく左右する。
三番瀬を青潮に強い海の再生するために、NPO三番瀬は、かつて三番瀬にいっぱいあったアマモを移植している 
アマモは夏を越し、その根本には、ひと掬いしただけでも、こんなにたくさんのアサリ、バカガイ、シオフキ、アラムシロガイなどが採れる。 海には、海草があるのが当たり前で、そうすれば、渡り鳥も安定した群れが作れるのだ

千葉県支部は、日本野鳥の会69年の歴史をふりかえり、21世紀の課題にとりくみます。

日本野鳥の会には、69年の長い歴史があります。千葉県支部は、その延長上に、

@探鳥会などの普及活動、
A調査・研究活動、
B多様な保護・保全・再生に取り組んでいきます。
行政と共催で、市民向け連続環境講座を開く 国の研究機関の委託を受け
鳥類生息調査を継続
三番瀬での夜間観察会や夜間調査を実施 省庁の研修会の指導も引き受けている